辻内若狭守
辻内若狭守は「大工」としての辻内の歴史上最初に登場する人物です。
戦国時代末期〜 安土桃山時代における「大工」という言葉は、現代のような「木造建築を行う個々の職人全般」という意味ではなく、建築・木工技術者集団の「長(トップ)」や「指導者」、あるいは「独占的な工事請負権(大工職)を持つ特権者」 を意味していました。


慶長十八年(1613)紫宸殿は後水尾天皇の公務の場所、辻内若狭守を中心に建立されたと言われています。写真は2026.10.9現在のものです。
慶長十八年(1613)11月19日早朝、京都御所で上棟の儀式が行われた。後水尾天皇のための内裏がいよいよ完成に近づいたのである。総奉行板倉伊賀守勝重・大工頭中井大和守正清等が見守る中で辻内若狭を始めとする大工たちにより、儀式は帯りなく進む。上棟式を挙行したのは内侍所・紫宸殿・清涼殿・常御殿・学問所の五棟。現在では上棟式というと、文字どおり棟を上げる儀式であって、ようやく骨組が出来上がったにすぎず、完成とは程遠い。しかし、この時代の上棟はほぼ完成したことを意味していた。上棟の五棟は屋根もすっかり葺き上がっている。
声の綱(こゑのつな)とは曳き綱である。
発声役として辻内若狭の名が、紫宸殿の屋根の南端に書かれている。(工匠たちの知恵と工夫より)
※江戸時代の建築において「曳き綱(ひきづな)」は、主に伝統的な建築儀式である「上棟式(じょうとうしき)」で用いられる儀礼用の綱を指します。江戸時代、大工の棟梁が取り仕切る形として定着した上棟式(建前)では、「工匠式(こうしょうしき)」と呼ばれる一連の儀式が行われました。その中で、建物の最も高い場所に据えられる重要な部材である「棟木(むなぎ)」を屋根の上へと引き上げる際に、参列者や職人たちが全員で掛け声を合わせながら力を込めて引いたロープがこの曳き綱です。現代でも神事として行われる「曳綱の儀(えいこうのぎ)」にその名残が見られます。

上棟式の配置図(工匠たちの知恵と工夫より)
紫宸殿の正面に「こゑかけ 辻内若狭」とあります。

京都御所平面図(京都御所より)
辻内刑部左衛門 生年不明〜寛永十一年(1672)没
辻内刑部左衛門は 寛永十一年(1635)松平定綱が桑名藩主着任の頃 近江より辻内豊後守(甚太郎)を招聘し家臣とし辻内刑部左衛門の称号を与えたとあります。
寛文二年(1662)の大地震により、京都二条城の天守閣が傾き、幕府はこの改築費として二万六千両を予定した。ところが、桑名藩主松平越中守定重が家臣の大工 辻内刑部左衛門を強く推挙したので、幕府は戸田左衛門頭、本多下野守を奉行として、改築工事を刑部左衛門にやらせることとした。そして二、三ヶ月して工事は完成したが、費用は四百両余にすぎなかった。そこで幕府は刑部左衛門の功を賞して金三十枚を与え、また召出して幕府の大棟梁として給米百石を与えることとした。
また越中守定重よりも五人扶持五俵を受け、桑名藩江戸屋敷の長屋に住んでいた、というのである。(海上町史より)
その後 椿海の干拓事業を手掛けました。(椿海参照)

世界遺産 二条城(洛中洛外図屏風より)
寛文地震
寛文2年5月1日(1662年6月16日)に発生した寛文近江・若狭地震において、二条城は石垣や御殿などの建造物に甚大な被害を受けました。城内を取り囲む外堀などの石垣や築地塀が激しく崩落・破損しました。二の丸御殿は完全に倒壊することは免れたものの、柱や梁といった構造骨組みが歪み、建物全体が大きく傾く「大破」の状態に陥りました。激しい揺れによって大量の屋根瓦が崩れ落ちたほか、御殿内部の障壁画が描かれた障子や襖、天井などの造作も大きな衝撃を受けたとされています。石垣の崩落に伴い、その上に建っていた築地塀や、防御用の細長い建物である多聞櫓なども巻き添えになって崩れ落ちました。二条城の敷地、特に東側(二の丸御殿側)は、かつての神泉苑の池跡や湿地帯に近い低地であり、地盤が非常に軟弱なエリアでした。そのため、この地震の際には城内で「地割れが走り泥が噴き出すほどの激しい揺れに見舞われ、その地盤沈下やズレが上部にある木造建物の倒壊や傾きをさらに悪化させたと考えられています。(世界遺産元離宮二条城より)

二条城二の丸御殿
