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フルバージョン 椿海から干潟八万石へのあゆみ ~みのりの大地を求めて取り組んだ350年の道のり~ 椿海干拓350周年記念 干潟八万石物語(旭市制作)

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ダイジェストバージョン 椿海から干潟八万石へのあゆみ ~みのりの大地を求めて取り組んだ350年の道のり~ 椿海干拓350周年記念 干潟八万石物語(旭市制作)

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『ちば見聞録』#051「干潟八万石を歩く」(2015.9.19放送)千葉テレビ制作 寛文年間に「椿海」と称された湖を干拓してできた干潟八万石の歴史、辻内刑部左衛門、辻内善右衛門の業績などを紹介

明治33年 椿村の菅親和の書いた「椿新田開梱時略」には次のようにある。
寛文三年12月6日の大地震により、京都二条城の天守閣が傾き、幕府はこの改築費として二万五、六千両を予定していたところ、桑名藩主松平越中守定重が家来の大工辻内刑部左衛門を強く推挙したので、幕府は戸田左衛門頭、本多下野守を奉行として、改築工事を辻内刑部左衛門にやらせることとした。そして2、3ヶ月して工事は完成したが、費用は400両あまりに過ぎなかった。そこで 幕府は辻内刑部左衛門の功を賞して金30米を与え、また召し出して幕府大工頭として給米百俵を与えることとした。また越中守定重よりも5人扶持50俵を受け、桑名藩江戸屋敷の長屋に住んでいた。

鎌数村栗本萬右衛門の記録書によると
辻内刑部左衛門(澤浄休居士)貞享(じょうきょう)2年子の年6月14日卒 (1685年)勢州桑名の産とある。
辻内善右衛門 (光譽壽昌居士)寛永4年亥年2月5日卒(1627年)
辻内刑部左衛門の長女が聟にとる善右衛門は辻内刑部左衛門と同姓で親戚と見えたりとある
野田屋市郎右衛門は 辻内善右衛門の長女を娶る

水帖によれば 辻内両氏は 東庄町小南村に住む
辻内刑部左衛門と栗本源左衛門と辻内善右衛門の墓は 鎌数村廣徳寺
辻内刑部左衛門と栗本源左衛門と野田市郎右衛門の墓は 旭市鎌数 留下向井墓地
辻内善右衛門の墓は 干潟水帖によれば 野田屋市郎右衛門も 福聚寺(東庄町小南)にありとも書かれている

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松平定綱の人使いより抜粋 辻内刑部左衛門と定綱の関わり

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朝日新聞 椿の

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2018.11.15 広報あさひ

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れきぶん

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匝瑳市(そうさし)広報

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古城村 村史

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武田信玄の陣鐘についての問い合わせ

辻内と歓喜院清水住職との手紙

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武田信玄の陣鐘(信濃宝鑑)

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寛文地震について

江戸時代、1662年に寛文近江若狭地震が発生しました。震源域は琵琶湖の北西地域。巳刻(みのこく:午前9時~11時頃)に、若狭湾に面する日向(ひるが)断層が動き、午刻(うまのこく:午前11時~午後1時頃)に、花折(はなおれ)断層北部が動いた双子地震であったという説もあります。京都では、伏見や淀など、地盤が弱い地域で大きな被害が発生した他、八坂神社の石鳥居をはじめ多数の石灯籠も倒壊し、圧死者も出ました。八坂神社の高さ約9mもある石鳥居が崩れたり(鳥居は現存)と、現在の我々が知っている場所でも被害が出ています。


禁裏御所・仙洞御所や二条城の番衆小屋などがほとんど破損 町屋や屋敷の倒壊 1,000 軒余、死者は男女 200 余 京中の在家では町人のほとんどが道路に仮屋を建てて避難 五条大橋は中ほどから鴨川へ崩落したが、人の往来はできた 三条大橋は破損
祇園社(八坂神社)・清水寺の堂舎はほとんど破損 二条城は屋敷が破損、外曲輪の多聞櫓・塀・石垣がほとんど破損 知恩院・妙法院では坊舎が倒壊 方広寺大仏の回廊・仁王門・鐘撞堂が破損 

寛文 2(1662)年 5 月 5 日の申刻(午後 3~5 時頃)に、酒井忠清(老中)・阿部忠秋(老中)・稲葉 まさのり 正則(老中)が江戸城へ登城した。5 月 1 日に京都で地震があったことが報告された。被害は以下 のとおりである。 
禁裏御所・仙洞御所・二条城・大坂城が所々で破損 五条の石橋が崩落 京中(京都市中)の町屋が所々で破損 大津の蔵(米蔵)・宇治の蔵(茶蔵)が崩壊して死者あり 禁裏(天皇)・院中(上皇)は無事 
(『殿中日記』) 
このようにして地震発生から 4 日後には、畿内で発生した地震に関する速報が、京都所司代の牧野親成からの書状によって江戸城へともたらされた。このような京都所司代からの第一報を受 
けて、5 月 5 日の申刻に江戸城へ登城した老中などの幕閣たちは、今後の対応を協議した。
地震発生時、牧野親成は茶壺道中(毎年 4、5 月ごろに幕府が、宇治茶を茶壺にいれて江戸ま で送らせた行事)の準備で宇治におり、地震発生後、急いで京都へ戻って、京都市中やその近辺の 
被害情報の収集を行っていた(『慶安元禄間記』)。


参考史料 
『慶安元禄間記』:国立公文書館内閣文庫所蔵(請求番号 150-0127),文部省震災予評議会編,増訂大日本 地震史料 第一巻,和光社,pp.819-820,1941.
『殿中日記』:国立公文書館内閣文庫所蔵(請求番号 163-0216),文部省震災予評議会編,増訂大日本地震 史料 第一巻,和光社,pp.816-818,1941. 『徳川実紀』:黒板勝美編,新訂増補 国史大系 第四十一巻 徳川実紀第四篇,国史大系刊行会,1932. 朝尾直弘,吉川真司,石川登志雄,水本邦彦,飯塚一幸:京都府の歴史,山川出版社,1999. 京都市編:京都の歴史 5 近世の展開,学芸書林,1972. 


 

寛文地震

金属類の強制回収

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金属類の強制回収
1941(昭和17)年5月9日、政府はついに属類回収令(前年8月30日公布)の第六条にもとづいて、鉄製品、銅製品などの特別回収 (いわゆる金属供出)を、いっそう強化徹底することを決め、5月12日から、強制譲渡の命令を発動した。
金属類の特別回収は、日中戦争以来、航空機、艦船、兵器などの酒耗をしいられてきた日本が「持たざる国」の悲しさから軍需資材の供給にこと欠く始末となり、軍備の充実と艦船の建造を円滑に促進するために思いついた措置であった。しかし、1914年からはじまった鉄製品や銅製品の特別回収は、一般家庭や指定施設からの供出がばらばらで、きわめて非能率的であった。そこで1942年度には、とくに数量の多いとみられる指定施設に、まず重点をおいて、5月から9月まで徹底的に回収をおこない、9月以降に、一般家庭からも回収することにしたのである。(画報日本近代の歴史より) 

梵鐘を逆さにして地面に埋めトイレの代わりにしていた例もあったそうです。

​奇跡の梵鐘と大八車の車輪

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銀杏山 法専寺

三重県松阪市飯高町七日市

法専寺の釣り鐘と大八車
今から、およそ80年前、1942年(昭和17年)11月24日、太平洋戦争中の金属類回収令により、釣り鐘は由緒ある古いものを除きほとんどが共出させられました、兵器の原料となる金属が不足したため、家庭にある鍋釜までも対象となりました。法専寺の釣り鐘も例外ではありませんでした。大半の寺院が釣り鐘を併出し、四日市の石原産業精錬工場に集められました。こうしてしばらくは釣り鐘のない状態が続きました。
 終戦直後の昭和21年の混乱期にも係わらず、釣り鐘が返還されるとの報に接し、乏しい食糧下のもと、ひと夜をかけて共出先の塩浜へ大八車で受け取りに行ってくれました。当時、その受け取りに向かわれたのが、泉谷要次郎、中川多三郎、中西辰二郎の三氏です。釣り鐘の復元をひたすら願うご門徒さまの力が結集され、三氏に託されたのではないでしょうか。その時使われた大八車の車輪が大西健さん宅で保存されていました。
コンクリート製の釣り鐘が吊るされている寺院も見受けられますが、法専寺は、先人の汗とご苦労により復元されることができました。この車輪にはご門徒さんの思いが込められています。そしてこの釣り鐘が私たちの祈りの中で今日も境内に鳴り響いています。
(この釣り鐘は、明治43年12月に錆造されました。)

 

令和3年8月 真宗大谷派  法専寺

梵鐘の鋳造法

 

鐘の材質には鉄鐘、銀鐘も造られたが、これらは特殊な鐘であって、もっとも一般的な鐘の鋳造材料は銅と錫(10~15%)の合金で青銅鋳物である。

昔の鐘は精錬技術が進んでいなかったので、銅、錫の他に亜鉛、鉛等の不純物が多く含まれている鐘もある。ときには鋳造されるときに信者が溶湯の中に金銀の財宝を投げて供養したので多少の金銀が含まれている鐘もあるといわれる。或る寺院では、うちの鐘は金が入っているのでよく鳴るといわれる が、この理由からであろう。

鋳造にあたっては、まず鐘の各部の寸法設計ができると、鐘の断面図を縦に二つ割りにした実物の平面図をつくり、これを檜材にうつして、その通りの形に板を切り抜く。これが鐘の原型である。この原型に習ってコンパス状の簡単な模型を作る。この型を馬と呼ばれる受台に固定して、コンパスを廻すように模型を少しずつ廻しながら鋳型を造る。

こうして廻しながら鋳型を作る方法を挽型、または、廻し型と呼んでいる。現在では特殊な製品の他は使われないので、普通の鋳物師では使い方を知らない。

図⑥が梵鐘に使われる廻し型である。ついで粘土と砂を適当に混合した鋳物砂(真土「マネ」)を円筒形の枠の中につめ込み、廻し型を使って外型を造り上げる。

外型は普通四段に分れて造られるので、出来上った鐘の面をよく見ると接目がある。これは型を積み重ねた境目である。この境目のことを見切線といっている。この接目を見えないように造型す

るのが鋳物師の技術である。

内型(中子「ナカゴ」)を作るには、外型の内部に型土をつめ、その内側を空所にして火を入れ、乾燥させて引抜いたあと、表面を鐘の肉厚に相当するだけ砂を削り取って内型をつくる。それから地面に掘った穴へ内型と外型を埋め込み、さらに笠型をかぶせる。その上に竜頭の鋳型を取り付ける。笠型には湯口、

押湯も取り付けて完了する。

次に、1200~1250度に溶解された溶湯を1100~1500度の温度で、一度に湯口から注湯される。注湯後冷却する迄、約一日放置後型ばらし、製品を取出す。

この鋳造法は代表的な手法であり、この他、初めに内壁を造る方法もあり、最近は更に新しい舞造法でも造られている。

梵鐘の大きさは口径45糎(一尺五寸)からあり、大は東大寺(口径271糎)や、方広寺 (口径276糎)の特大級もあるが、普通寺院に懸けられている梵鐘は60糎(二尺)から90糎(三尺)の範囲の大きさが多い。この程度の鐘の重量の概略は表①のようになる。この重量はあくまでも一般的 なものであり、鋳物師によっても多少異なる。

昔は梵鐘を直接計る秤がなかったので、鋳物師は肉厚だけ掻き落した型砂を大切に保管しておいて、その砂の枡目を計り、鐘の目方に換算したといわれる。その計算方法は型砂一升(約1.8L)が梵鐘の材料の目方で約四貫(16kg)として計算された。(三重の梵鐘より)

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梵鐘各部の名称

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龍頭(りゅうず)

鐘の最上部にあり環状をしていて鐘を吊る部分を龍頭と言います。正しくは蒲牢(ほろう)ですが、龍の頭を形取ったものをよく使われるようになって、いつの間にか俗称の籠頭と呼ばれるようになった。龍頭は二匹の龍の頭が相反して、その上に蓮座を乗せて環状につないでいる。龍の頭をかたどらないものもあるが、鐘を吊る部分をすべて龍頭といいます。鋳物師はこの龍頭に技巧を加えた見事な作品が多い。

笠形

鐘の上部にあり笠のような形状をしているので通称笠形と呼ばれる。龍頭と連結する部分で鐘身には含まれないが、全高には含まれる。笠形には溶湯を鋳込む湯口があって、湯口を切断した跡が残っている。この部分は3〜10糎程で狭く下からは殆んど見えなく、紋様や銘文は書かれていない。

​乳

母体の乳房のような形状をしているので名付けられたものである。技巧を凝らしたものが多い。乳が鐘の形状を均衝に保たせている。梵鐘には乳の数は鐘の大きさに似合った数が付けられている。仏教でよく使われている八数理が多い。とくに108煩悩を現わす5段✕5列✕4区の100個に、さらに六道の間(縦帯)の上部に各2個の8個を合せた108個の乳が多く見受けられる。

​池の間

鐘梵鐘の心蔵部ともいえる重要な部分であり、縦帯にて四区に区画されている。他の間には紋様か銘文の何れかが彫されている。紋様は天女、仏像、花模様(とくに蓮華)が多く、銘文は仏教の一節、寄進者名、鐘を造った経過、鋳物師名、製作年代等様々である

​帯

帯は鐘の周囲を取り巻いている区画線ともなっている。帯には縦帯、横帯があり、横帯は乳の上部、池の間の下の撞座の位置、草の間の上とに三本あり、それぞれ、上帯、中帯、下帯と呼ばれる。縦帯は池の間、乳の間を四区に区画していて六道の間ともいう。縫帯の座のある正面と裏面に彫字があり、正面の縦帯には「南無阿弥陀仏」の六文字が多く、裏面の縦帯には何々山、〇〇寺が彫されている梵鐘が多く、側面の縦帯には製作年度、住職名、鋳物師名等が彫られているのが多い。

​撞座

撞木で鐘を叩く座のことをいう。一般に鐘の下部に正面と裏面の対称の位置に2個円形状の外周に八葉の蓮華の紋様が付けられているので鏡・八葉とも呼ばれる。特殊な梵鐘には正面のみに一個、または四面に各一個付けられている鐘もある。

​草の間

中帯と下帯の中間にあり、草の間には龍や「獅々の紋様が鋳込まれている。銘文は少ない。一般にこの部分には何もかかれていない梵鐘が多い。

駒の爪

梵鐘の肉厚は駒の爪の部分をいう。鐘の壁、壁肉の各部は位置により異っている。例えば鐘の草の間附近では3~4糎もあるが、乳の部分では1糎程の厚みしかなく、厚みの変化は微妙な関係を形作っている。この厚みの曲線が音響に大きく影響する。このように厚みが異るので、肉厚を駒の爪と称する部分で測定されるのである。この部分はロ径の一部でもある。

撞木(しゅもく)

梵鐘と撞木は重要な関係がある。撞木は縦方向にひび割れをおこしたり、すりへったりしない材質が使われる。それには棕梠(しゅろ)が良いとされる。しかし、棕梠の太さは限界があり、梵鐘の口径2尺5寸から8寸程にしか使えない。それより大きい梵鐘に対しては、芯去りの桧材が使用される。それ以上は赤松・欅等の堅い木が使用される。

撞梵鐘の鋳字

梵鐘には様々な紋様や銘文が彫刻されている。画き出された宇にも凸字の陽字と凹字の陰字がある。陽字には木型や石膏等の模型を型に込めて造った陽字と、へらで画き上げた陽字がある。型字はきれいで素人目には良く見えるが平凡である。へら字は鋳物師の技巧であり精魂がこもっていて、力強さを感ずる。陰字である凹字はタガネにて一字づつ彫込む作業で、他の間には多数の銘文が彫されている。時には池の間全区に鐘の経過や仏教の一節、寄進者等が刻まれている。

梵鐘の音色

梵鐘の良否は、材質・鋳造技術によって決定されるが、最終的には外観の形状と音響の良否によって左右される。音響を良くするには、材質と壁肉の曲線・鋳造技術に関係がある。壁肉の曲線は鋳物師特有のものである。また、音響には音の高低と余韻の長さで決定付けられる。吉田兼好法師は徒然草に「およそ鐘の音は黄鐘調なるべし、その無情の調子祇園精舎の無常院の聲なり」と記されている。梵鐘には甲高い「ラ」の音が好まれる。

ド 神仙(しんせん) シ 盤渉(ばんじき) 鸞鏡(らんけい)ラ 黄鐘(おうじき) 鳧鐘(ふしよう) ソ 雙調(そうちょう) 下無(しもむ) ファ 勝 絶(しようぜつ) ミ 平調(ひようじよう) 断金(だんきん) レ 壹越(いちこつ) 上無(かみむ) ド 神仙(しんせん)

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