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歴史と辻内家

江戸時代、桑名には朝廷より鋳物製造を許可された、辻内家をはじめと する二軒の「御鋳物師」(おんいもじ)が存在していたと伝わっています。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居・・・・」と里謡に歌われたという 、春日神社の青銅鋳物の鳥居の堂々たる威容は、 旅人の目を驚かせたと伝えられています。 他にも、神社仏閣の灯籠、梵鐘、鍋釜類、農機具が作られました。
鋳物師は朝廷の許可がなければ開業や家業継承ができなかったこともあり、当時、両家以外で桑名に鋳物師がいた記録はありません。


残念ながら日中戦争から太平洋戦争にかけて戦局の激化と物資(武器生産に必要な金属資源)の不足を補うため、金属類回収令が発令され寺院の梵鐘もその対象となったため多くの作品が消失しました。

現在 現存している作品、消失した作品を調査しております。
調査の結果をできる限りご紹介していきます。

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​現在

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​大正初期

​桑名宗社(春日神社)青銅の大鳥居

初代 辻内善右衛門作

慶長7年(1602年)12月13日、時の城主 本多忠勝公より木造の鳥居が寄進されましたが、51年後の承応2年6月5日に大風で倒壊しました。13年後、藩主松平定重侯が日本随一の青銅鳥居の創建を企画し、神社修理料の積立金を基本に(慶長金250両)鋳物師 辻内善右衛門尉藤原種次に命じました。種次はこの大事業に精根を注ぎ、家産を傾けて見事に成就せしめたのがこの鳥居です。寛文7年(1667年)完成しました。
様式は台輪鳥居、青銅造り、沓石八稜、両柱間隔4.7m、
島木及び貫に花輪違いの模様重ね、貫には上り藤紋10(表裏)両柱の上部に上り藤紋4(表裏)を陽鋳しました。
銘文は左右柱の表に「華表巍巍 惟直惟圜 神威可畏 保定萬年」裏に「寛文第七祀八月穀旦」の銘があります。銘の作者は幽巌(儒著味岡喜太夫)、筆者は伯宝(常信寺4代住職)、治工 辻内善右衛門種次です。
この鳥居は寛永年間に建立された日光二荒山神社の青銅鳥居に酷似しています。
(香取秀真氏)が製作 意匠は桑名の方が優秀(伊東富太郎氏)であるといいます。

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​瑞光山禅林寺 喚鐘

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寛文九年(1669年)初代 辻内善右衛門作の喚鐘

三重県三重郡菰野町 臨済宗妙心寺派

天智天皇5年(666年)聖徳太子の遺願により藤原鎌足が創建 

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​大雨山甘露寺 梵鐘

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貞享三年(1686年)初代 辻内善右衛門作の梵鐘

三重県いなべ市北勢 浄土真宗鎮西派 京都知恩院末寺 冶田金山から産出した銅をもとに辻内善右衛門により製造 「一里聞こえて二里響く」とまで言われた名鐘

​脇道閑話 千葉の落花生と椿海

辻内刑部左衛門は(不明〜1685)桑名藩のお抱え大工でしたが寛文地震で破損した二条城の修復の功績により幕府の大工棟梁を拝命しました。

その高い技量が認められ、現在の千葉県旭市周辺にあった「椿海(つばきのうみ」と呼ばれる諏訪湖の3倍はあるといわれた干潟の新田開発を苦難の末に完成させました。八万石を超える新田が開発され18の村々が誕生しました。

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ピーナッツといえば、千葉が有名です。(以下落花生)

我が国における落花生の一番の産地です。全国生産の80%を占めています。

明治11年ごろに下総 鎌数村(現在の千葉県旭市)この土地の貝殻交りの砂質地帯が落花生の栽培に適していることから落花生づくりがはじまり、次第に千葉県内に広がっていきました。

​千葉の落花生の繁栄も刑部左衛門の思わぬ業績かもしれません。​

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​蓬莱山妙躰寺 喚鐘

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元文五年(1740年)四代 辻内善九郎作の喚鐘

三重県桑名市多度町大鳥居 浄土真宗本願寺派
永正四年(1507年)道空により開山

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​無畏野山徳蓮寺 擬宝珠

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天保十三年(1842年)七代 辻内善四郎作の擬宝珠

三重県桑名市多度町下野代 真言宗東寺派
弘法大師空海によって開創される

弘法大師作の虚空蔵菩薩が本尊

​脇道閑話 武田信玄

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武田信玄奉納の陣鐘

(歓喜院住職清水賢隆による図)

永禄四年(1561年)年9月、武田信玄が川中島合戦に出陣するに際して、迎接山歓喜院往来寺(長野県茅野市 浄土宗)に宿泊して、戦勝を祈念するため、本堂の裏面に天照皇大神宮を奉安し鎮守したという。

なお、陣鐘一個をも奉納した。

この陣鐘に文正元丙戌年八月吉日(寛正六年・1466年)「勢州桑名住 治工 辻内丹後守藤原家清作」の銘がありました。

残念ながらこの作品は 戦時中の金属類回収令による供出のため現存していません。

この作品は 高さ一尺五寸 口径 七寸 目方 一〆二百匁とあり「模様全部浮き型 音声非常によく人々は 金が使ってあると云って居りました。時々見に来る人士がありました。」と寺の記録にあります。

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妻沼聖天山歓喜院奉納の絵

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信濃奉還下巻より抜粋

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望富山 陽泰寺

信濃小県郡神科村に陽泰寺があります。上記の信玄が奉納した陣鐘はもともとこの陽泰寺にありました。

陽泰寺は 真田氏の祖先と言われる海野氏の菩提寺です。後年真田氏は武田信玄の配下となります。

陽泰寺の陣鐘が 信玄の手に渡ったのはこのあたりの事情ではないかと推察されます。

(信濃の鋳物師より)

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​微妙山宝林寺 喚鐘

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嘉永六年(1853年)七代 辻内善四郎作の喚鐘 三重県桑名市長島町中川 浄土真宗大谷派

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​究竟山傅西寺 喚鐘

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慶應四年(1868年)九代 辻内善四郎作の喚鐘 三重県桑名市星川 浄土真宗大谷派

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​北廻山祐泉寺 喚鐘

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明治九年(1876年)九代 辻内善四郎作の喚鐘 三重県桑名市今島 浄土真宗本願寺派

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​佐々木山深行寺 喚鐘

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明治十一年(1878年)初代辻内善平作の喚鐘 三重県桑名市長島町 浄土真宗大谷派明応六年(1497年)長島願証寺 蓮淳のもとへ集まった武将による開祖

​脇道閑話 名古屋城 金の鯱

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​名古屋城天守閣 金の鯱

辻内善九郎は 尾張藩の名古屋城 金の鯱の修復に加わりました。

鯱は明治四年に天守閣から降ろされ東京湯島の博覧会に出展されました。その後ウィーンの万国博覧会にも出展され明治十二年に名古屋城天守閣に戻りました。降ろされた時の破損の修復か、博覧会出展のための修復か明確な記録はありませんが、相当な技術者であったと記されています。

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​龍宝山西福寺 喚鐘

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明治廿五年(1892年)十代 辻内甚太郎作の喚鐘

三重県桑名市和泉 浄土真宗本願寺派

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玉横山明林寺 擬宝珠

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明治三十二年(1899年)初代 辻内善平作の擬宝珠

三重県四日市市下海老 浄土真宗本願寺派 

平安時代初期に三論宗延喜寺として建立その後浄土真宗に改宗

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花戸山遍崇寺 喚鐘

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明治三十二年(1899年)初代 辻内善平作の喚鐘

三重県員弁郡東員町中上 浄土真宗大谷派 

中上城址別名「花扉城」規模は東西160m×南北60mを誇り「員弁雑誌」によりますと、明応年間(1492~1590)、坂太郎左衛門(ばん たろうざえもん)が築城。城主の坂家は敗戦の後、仏門に入り、蓮如上人に帰依し、中上に寺を建て、花戸山遍崇寺として現在まで続いています。

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​岸西山大正寺 岸西庵 喚鐘

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慈恩山瑞応寺  如意輪観世菩薩

寺の入口右側に祀られている如意輪観世菩薩は地元の方から「瑞応寺の金ぶっさん」と呼ばれています。

第10世の那周が、明治三十八年(1905年)10月16日に27歳で亡くなった長男玄璋の三回忌に桑名の鋳物師辻内善平に依頼しました。当初は、もっと本堂に近い所に安置するつもりでしたが、人々がお参りしやすいように現在の場所に祀られることになりました。

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明治四十年(1907年)二代 辻内善平作の観音像

三重県員弁郡東員町長深 臨済宗妙心寺派 

長深(ながふけ)城主富永氏が、伊勢出身の高僧・景川宗隆 を講じて開基、文明年間(1469~87年)に開創

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​福嶌山長願寺 喚鐘

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明治四十一年(1908年)辻内周平作の喚鐘

三重県桑名市大字上之輪新田 浄土真宗大谷派

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​富田山源盛院 梵鐘

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明治四十二年(1909年)二代辻内善平作の梵鐘

三重県桑名郡木曽岬町 曹洞宗 承応二年(1653年)知多郡古見 真言宗妙楽寺の末寺であった。

知多郡寺本城主 花井播磨守 家臣堀田与右エ門が開基であったが、知多郡の豪農富田彦兵衛が和泉新田を開発してその一族と共に在住し富田山源盛院を曹洞宗に改宗その開基となり知多郡古見 龍雲院の末寺となる。 

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盤龍山花林院  観音像

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明治四十三年(1910年)二代 辻内善平作の観音像

三重県桑名市長島町長島中町 曹洞宗 

1702年長島藩の藩主となった増山正弥以降、8代に亘って長島を治めた その第一菩提寺は東京、藩内菩提寺としての第二菩提寺が花林院だがその開創については不詳

​脇道閑話 辻内刑部左衛門

寛永十二年(1635年)桑名藩主として着任した松平定綱は 幅広く人材を求めました。

そんな中 近江の工匠辻内を招聘、辻内の能力を察した定綱は辻内に刑部左衛門と称させました。慶安二年(1649年)江戸大地震により定綱をはじめ諸侯の江戸屋敷が被害にあいましたが、辻内刑部左衛門は迅速に定綱の屋敷を修復したことにより「古今の能工なり」と評判を呼びました。諸侯にも請われ諸侯の屋敷も修復、再建に尽力し、日を置かずして成しました。

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​京都 二条城

寛文二年(1662年)の近江・若狭地震により二条城の天守閣が傾きました。幕府は 修復に当初2万6千両を予定していましたが、このとき松平定重(定綱後継桑名藩主)に推挙された辻内刑部左衛門は、わずか3ヶ月、費用は400両にて修復工事を完成させました。この功績により徳川幕府の大工棟梁となり名声を得、代々大工棟梁を務め明治維新まで続きました。

二条城の修復後 辻内刑部左衛門は 現在の千葉県旭市周辺にあった「椿海(つばきのうみ」と呼ばれた諏訪湖の3倍はある干潟を開発に成功し、その新田は八万石もの収穫をえられるようになりました。

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井坂山冷水庵   喚鐘

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大正二年(1912年)二代 辻内善平作の喚鐘

三重県桑名市上野 曹洞宗 

桑名市北寺町の海蔵寺の隠居寺、明暦二年(1656年)2月上野に住む同寺の檀家、加藤茂右衛門が境内地を寄進、本堂を建立し、海蔵寺から孤峰愚白を住職に迎えて開創された 空海作の虚空蔵菩薩像が本尊

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無量山延柳寺   鳳凰雀の燭台

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大正二年(1912年)二代 辻内善平作の蝋燭台

三重県桑名市多度町 浄土真宗本願寺派 初代の住職の順和(じゅんな)が1474年(文明6年)に建立

この他に5個の燭台を製造した記録が辻内家の出納帳に記録があり全て現存しています。

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辻内家墓碑

延寿庵(慈源山延寿寺 通称北寺)

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大正三年(1913年)二代辻内善平建之、鋳工辻内善平、門人5名合作の墓碑 辻内家代々の墓

青銅円筒型、台蓮弁、精巧雅致に富む。

三重県桑名市西別所 元大福田寺の隠居寺奥平貞澄による創建(桑名市史)

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安法寺  擬宝珠

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大正五年(1915年)二代 辻内善平作の擬宝珠

愛知県弥富市 浄土真宗 大谷派

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​龍宝山西福寺 梵鐘

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大正十五年(1926年)二代 辻内善平作の梵鐘

三重県桑名市和泉 浄土真宗本願寺派

​脇道閑話 シーボルト

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​春日神社大鳥居 左下(久波奈名所図会中巻より)

当時日本一と評判をとった春日神社青銅の大鳥居

「伊勢の桑名に過ぎたるものは、青銅の鳥居に二朱女郎」と里謡に歌われていました

長崎出島のオランダ人医師シーボルトの著した「江戸参府紀行」によると 3月28日午前11時近くに桑名に到着 鐘その他金物の鋳方を見る。「鋳型こまかく篩(ふるい)にかけた灰白の砂からなっており、それを竹の柄のある丸い槽の中で湿し、その槽の中央に棹を挿み、その棹の横脇に翼を付け、これでごく簡単に思うままの形を与えるのである」とあり、各種の鋳型を作った様子がよくわかる。シーボルトは 好奇の目を持って眺めたとあります。(物語藩史 第二期 第五巻より)

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上相場説教所跡 梵鐘

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昭和五年(1930年)辻内鋳造所製作

かつて本光寺(いなべ市藤原町・浄土真宗大谷派)の支所として上相場説教所がありました。今は 鐘つき堂と梵鐘だけが残っています。

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​福嶌山福栄寺 喚鐘

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昭和七年(1932年)辻内鋳造所作の喚鐘

三重県桑名市福島 浄土真宗大谷派

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​天王山光明寺 梵鐘

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昭和22年(1947年)辻内善平作の梵鐘

岐阜県郡上市明宝気良 浄土真宗本願寺派

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​長尾山東泉寺 梵鐘

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昭和二十三年(1948年)辻内善平作の梵鐘

三重県いなべ市藤原町 臨済宗

​脇道閑話 大鳥居修復の歴史

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・暴風風により倒壊 寛永元年(1748年)に四代辻内善四郎により再建

・暴風雨により倒壊 明治三十二年(1899年) 辻内善四郎 辻内善太郎により修復

・伊勢湾台風により倒壊 昭和三十五年(1960年)辻内善平 辻内恒夫により修復

 

もともとは 本多忠勝が寄進した木造の鳥居が、承応二年の大風で倒壊、十三年後に松平定重が辻内善右衛門に命じて青銅の大鳥居が創建されたものです。以降その都度代々の鋳匠辻内家によって修復されて現在に至っています。

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