椿海の干拓
辻内刑部左衛門、辻内善右衛門父子らによる江戸時代最大の干拓事業
椿海または椿湖とは、九十九里平野の北部、現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市(そうさし)の境界付近に、江戸時代初期まで存在した湖である。
この湖は、東西12Km 南北6Km 周囲51Kmで九十九里浜隆起のとき、取り残された海の名残である。
この湖は、周囲の台地からの落水を受け、満々と水を湛えており、永い間、九十九里平野の農地に、農業用水として利用されていた。
辻内刑部左衛門は桑名藩主 松平定重の家臣であり、寛文3年12月に大地震で被害を受けた京都二条城の改修で、幕府に功績を認められ、幕府の大工頭を拝命。幕府から深く信頼された人物だった。この辻内が、江戸の金物商である白井次郎右衛門の説得に応じて、椿海開拓に乗り出した。
先ず主君の 桑名藩主 松平定重に願い出た。定重はこれを大老酒井雅楽頭忠清に申し出して内諾を得たので、改めて辻内刑部左衛門より老中宛に願い書を提出させた。辻内は二条城改築で功績があった者という事でこの願書は取り上げられる事になった。新田開発の発案者でもあった白井治郎右衛門は、長い間の開発願いや、その吟味の過程で多くの資金を使い果たしてしまい、いよいよ念願が叶って工事に取りかかったときには、資金が続かなくなっていた。これにより椿海新田開発は頓挫することになり、普請奉行として来ていた代官 関口作左衛門、八木仁兵衛は江戸に引き上げて行った。 しかし、辻内刑部左衛門は、両代官の後を追って江戸に登り、椿新田の開発を、一人ででも請け負いたいと幕府に願い出たのである。開発許可を取り付ける事ができた辻内刑部左衛門は、次の工事にかかる莫大な費用の事を考えて、縁者である江戸の材木商 野田屋市郎右衛門と栗本源屋源左衛門を下請けとして仲間に入れ、娘婿の辻内善右衛門を伴い寛文10年6月工事再開を目指して椿海にむかった。工事は予想を超える大工事にとなったのである。さすがの請負人たちも資金が尽きてしまい、幕府に資金の借用を願い出た。幕府は6,343両を貸し与え、工事は進められた。一連の工事は延宝元年(1673年)に完了 ようやく残った湖水も干上がり、椿海も湖底を見せるようになった。
千葉県旭市 匝瑳部史 干潟八万石物語より抜粋

14ヶ所作られた溜井堰,この堰を結ぶ総掘り、新川の延長五間川と七間川が見られます

椿新田に新しく誕生した18ケ村、青い字の村名が新しく付けられたもの
辻内刑部左衛門、辻内善右衛門のたずさわった椿海干拓事業が完成した後、多くの村ができました。「最終的に干潟八万石」の新田ができ、18ヶ村(春海・米持・秋田・万力・入野・米込・関戸・万歳・八重穂・夏目・幾世・清瀧・大間手・長尾・高生・琴田・鎌数・新町)が成立しました。
椿海の新田開発の事業が終了したあと、辻内善右衛門は 桑名に戻り鋳物師(いもじ)としての仕事に専念しました。
鋳物技術を子孫に伝え現在に至ります。
辻内刑部左衛門の子孫は、江戸に残りその子孫も代々江戸幕府の大工棟梁として活躍し明治維新まで続きました。
辻内刑部左衛門を偲ぶ
